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第40話 雷雨の初夜③

Author: 花柳響
last update Last Updated: 2026-01-11 06:00:50

「あっ……!」

 視界が大きく揺れ、私は反射的に彼の首に腕を回してしがみついた。

 濡れた髪が私の頬に触れ、冷たい雫が胸元にこぼれ落ちる。その冷たさが、かえって彼と密着している部分の熱を異常なほどに引き立たせた。

 彼は私を抱えたまま、ゆっくりとした歩調で、大きなベッドの中央へと歩を進めた。

 シーツの上に降ろされると、ふわりとした感触と共に、逃げ場を塞ぐようにして彼の重みが覆い被さってきた。

 もう、どこにも行けない。

 背中には柔らかなマットレス、そして上からは逃れられない大きな支配者が私を押さえつける。

 征也の指が、私のガウンの合わせ目に掛かった。

「……月島莉子」

 彼は、私の名を呼んだ。今となっては、私の旧姓である名前を。

 その響きには、かつて高校の屋上で私を呼んだ時の、あどけない少年の面影がほんの少しだけ混じっているように聞こえて――私は胸の奥を、鋭い刃物でぐちゃぐちゃに掻き回されるような痛みを覚えた。

「あの日、お前が俺から逃げ出した日……俺がどんな夜を過ごしたか、考えたことはあるか?」

 彼の指が、ゆっくりと時間をかけるようにしてガウンの紐を解いていく。

 少しずつ、外気に晒される肌が粟立ち、心臓の音が耳元までうるさく響いた。

「あの時から、俺の時間は止まったままだ。俺の……不甲斐なかった俺自身への憎しみと、お前への、呪いみたいな執着だけで、俺はここまで這い上がってきた」

 彼の言葉は、震えるほどの告白のようでいて、同時に残酷な死刑宣告のようでもあった。

「だから、今夜からはお前がその代わりをしろ。……どんなに泣いても、絶対に許さない」

 ガウンが肩から音もなく滑り落ち、私の無防備な姿が露わになる。

 征也さんの瞳の色が、いっそう濃く、昏くなった。

 彼は私の細い足首を掴み、自分の方へと乱暴に引き寄せる。

 その手のひらは、火傷しそうなほどに熱かった。そして、掴まれた場所から、毒のように甘いしびれが血液に乗
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